2017年10月19日木曜日

ダウトオウル『戦略的縦深』第一部 2章 2節 2.歴史的背景

2.歴史的背景
 このグローバルなアプローチと戦略理論の欠如の制度的弱点を生んだより深い原因は歴史的体験の蓄積の中に求められなければならない。それは歴史的体験の最も顕著な特徴の一つであるオスマン‐トルコ帝国の対外政策の伝統の帝国主義‐植民地主義的戦略を実施していないことの中に見出すことができる。 
 大国が古典的国家戦略を発展させた19世紀は、植民地の世紀だったが、この19世紀のオスマン帝国にとっての懸案は、国家の一体性の維持とこれ以上の土の喪失を防ぐことに他ならなかった。そしてこれが、国境の内部だけに限定した防衛戦略という現状維持のアプローチがやがて対外政策の慣行となるに至る端緒となったのである。大国はこの理論枠組に則った戦略に従い、国境の内側に留まり、その新しい均衡の維持に努めることになった。
 このように失われた全ての部分の後に手に残ったものが守られたことに不安、混乱、恐れ、の中に居れられた、それで国境を超えた領域との関連は切断される。トルコ行進曲の「敵から故地へ」のリフレインのノスタルジックなメロディーの両極の戦略の間で選択がなされる。絶対的な支配か、絶対的な放棄か、となり、支配権が失われた土地は直ちに放棄される一方、新しい国境は死に物狂いで防衛するようになったのである。それが、絶対的な支配と絶対的な放棄の中間の影響領域を作り上げたり、国境を国境を超えた外交によって守ったり、戦略によって同盟したり、放棄せざるをえない領土は自己の戦略に近い政治エリートに委ねたり、大国の間の紛争を利用しながら戦術的可動域を確保するような中間的戦術の余地をなくしてしまう。
 これ、オスマン帝国の衰退期の重要な例外の一つであるアブデュルハミト2世が模索した植民地政策である。アブデュルハミト2世の植民政策は(世界の)ムスリムたちに国境を超えて影響し、列強のオスマン帝国に対する浸食政策を一定程度防ぎ遅らせることができた。この理由で、アブデュルハミト2世の33年間には、93回の戦争があった他には、深刻な領土の喪失はなかったが、この中間的を放棄し、「絶対的な支配権か絶対的な放棄」政策を復活した「統一と進歩委員会(青年トルコ党)」の治世に、オスマン帝国は、大国としての存在を、とりわけその最後の支えであったバルカン-中東中軸を、わずかな間に失ったのである。
 この両極端の間の行きつ戻りつは、その結果として、オスマン-トルコ帝国の対外政策の伝統であったグローバルな戦略的地平を狭め、戦術的選択肢を減らし、近い地域に対する影響力を失い、内政における矛盾を外敵の脅威に転嫁する悪循環に陥った。尚、重要性は、対外政策の必要性、と国内政治文化の間の調和的各種多様を実現させない。それゆえ、国内政治で支配的になったイデオロギー的言説とプラグマティズムが、対外政策の必要性を棚上げしたのである。
 件のオスマン-トルコ帝国の19世紀における対外政策によって例証することができる。この時期のバルカン諸国、カフカース、中東の政治は、絶対的な支配権と絶対的な放棄の間に挟まれたこの戦術の不毛性の好例である。例えば、バルカン諸国を放棄してから後は、オスマン-トルコ帝国の対外政策の伝統におけるこの地域に対する関係は、絶対的放棄の特徴に数えられえる移民に限られることになった。豊かな天然資源を有する中東とアラブ地域を放棄してから後は、イデオロギー上の連環のある東方に背を向ける政策が実行された。シャイフ・シャーミルの(反乱の失敗の)後にカフカースがロシアに引き渡されて以降は、カルス、アルダハン、エルズルム台地の防衛が懸案となった。国際法上も議論があるモスルとキルクークの放棄の後では、この地域での完全に放棄された土への野望が、絶対的支配権を死守すべき東アナトリアに否定的な影響をあたえないように努めた。最終的(1911年)に植民地主義者に奪われたリビアの西トリポリの抵抗戦の後には、北アフリカの喪失が続くことになるこの地域に対する一方的なの関係は、50年後に共産圏に対して我々が西側の友好国であることの証としてアルジェリアのムスリム(の独立闘争)に対してフランスの植民地主義者を支持するという形で示したのである。
 バルカン諸国を放棄した後、オスマン帝国が残した文化的、政治的意味での資産の維持に十分な熱意を示さなかったように、国内の政治文化的変化の否定的な影響によって、オスマン帝国の歴史の遺産とイスラーム文化の影響を失うことに為す術がなく、特にブルガリアとギリシャでそうであった。トルコ外交の政策決定者たちは、ブルガリアでのオスマン帝国の遺産である文化の立脚点としての様々な宗教施設の抹消に対して抗議しないままに、政治文化の国境を越えての影響を及ぼすべき関係の範囲について誤った判断を下したが、その結果はジブコフ(ブルガリア総書記)時代の同化運動によって明らかになった。
 ポスト冷戦期においてもそれが続いていたことがボスニア政策において明らかになった。対外政策において影響力があった一部の政治家が、ボスニア紛争の最初の局面でイゼトベヴィッチのイスラームのアイデンティティーを嫌って、フィクレト・アブデチュのような世俗の指導者たちをトルコが支援すること望んだ。後になってアブデチュがセルビア人の側についたことがバルカン諸国のイスラームのアイデンティティー及びオスマン帝国の遺産とトルコの域内政治との間の不可避の従属関係を作り上げた。バルカン諸国で破壊された全てのモスク、解散させられた全てのイスラーム組織、文化の領域で消された全てのオスマン帝国の伝統の一つ一つが、トルコがこの地域での国境を超えた影響力の名残の礎石なのである。トルコはバルカン諸国での絶対的放棄のシンボルになった移民の政策の代わりとなるオルタナティブの中庸の政策を取らねばならない。この中庸の政策の土台となっているバルカン諸国のオスマン-イスラーム文化の存続が不可避である。特にバルカン諸国におけるオスマン臣民の子孫の二主要民族、つまりボスニア人とアルバニア人の独立国家を持とうとの試みは、その自然な同盟諸国とトルコの間にある共通の歴史的文化の絆の土台によって支えられていることが必要である。
 トルコは、バルカン諸国の政策を、バルカン戦争の悲劇の苦い記憶が織り成し冷戦のパラメーターが強化した東トラキアとイスタンブールを死守せねばならないとの心理的トラウマから解放しなくてはならない。この地域の新たな状況下での東トラキヤとイスタンブールの防衛は東トラキアをめぐる従来の同盟ではなく、バルカン諸国における国境を超えた影響下にある領域を外交的、軍事的意味で能動的な利用対象とすることを断念することによる。今日のバルカンでは地域的な規模での活動的な諸勢力が均衡状態を作り出しており、その自然な帰結としての中間的な形態を、柔軟でダイナミックに使いこなせる国々が影響力を増している。不活発で停滞した国はこの地域でのリーダーシップを失い、次第に孤立化していくのである。
 絶対的支配権‐絶対的放棄の二項対立という難題はコーカサスにおいては現実的である。実質的にはエルズルム高原の北東部分でありながら93年戦争以来現在にいたるまでカフカースにおいてはそれと似たような状態になっている。その時以来現在まで、オスマン‐トルコ帝国の対外政策の最も重要な課題は、ロシア-ソ連の拡張戦略においてアナトリアの地政学上の鍵であるエルズルム高原を南西に下ることを防ぐことである。それには、一つは失敗、他は失敗の二つの例外がある。エンヴェル・パシャ(陸軍大臣)の「アッラーフエクベル山脈の悲劇」を生み、カズム・カラベキル(1948年没、大国民議会議長)はロシア内部騒乱を見据えて実現させた活動の結果として、当時の2世紀の間で初めてコーカサスで攻勢に出てカルス・アルダハン国境周辺を取り戻し、ナフジュバン問題でも明確な保証を手にすることができた。この二つの例の帰結は、冒険と見通しのある攻勢との違いに関して、対外政策の担当者に対する重要な歴史の教訓となる。
 カズム・カラベキルによる成功は、絶対的支配権を確立しようとの大規模な軍事動員と絶対的放棄を代表する広範囲な人口移動とを調和させる政策の伝統の基礎となる柔軟性をも明らかにしている。危機的な状況を正しく認識し、時を見計らい、外交と軍事を組み合わせ、成功を収める有効な振る舞いができる。
 トルコが対コーカサス政策を長期にわたって放棄してきた最も重要な理由は、エルズルム高原の北東での影響力の回復の自信の欠如と新たな93もの戦争の悲劇を繰り返さないかとの不安に由来する弱気である。そのために、冷戦期に、NATOが策定した軍事戦略は単にエルズルム高原の南西の防衛のために設定された。拡大するロシアの同盟勢力を、コンヤ平原に至るまでに、どれほど弱体化させられるかを、計算したのである。
 トルコはこの心理的防衛機構のせいで、カフカース地方での自然の同盟者たちを強化し、ロシア人の内部矛盾を利用することに思いもよらなかった。カフカース諸国と中央アジアの問題で見られる政策の矛盾と準備不足の最も重要な原因はこの心理的欠陥である。
 トルコの対外政策策定者はこの臆病さを乗り越えてカフカースでも積極的で柔軟な攻勢が必要である。コンヤ平原へ下ることができると考えるロシアはチェチェンへの侵攻でさえ困難に直面した。これは誇大広告ではない。この状況の適切な条件の下での洞察力のある積極的な政策の成果を無視するなら、将来の東アナトリアの防衛にかかる費用は甚大になる。バルカン諸国になぞらえるなら、東トラキアとイスタンブールの防衛は、アドリア海とボスニア、東アナトリアとエルズルム防衛、北カフカースとグロズヌイから始まっているのである。
 トルコの中東政策には絶対的支配権‐絶対的放棄のジレンマと戦略計画の欠如が刻印されている。第一次世界大戦後、中東との政治‐文化‐戦略的橋渡しの役割を投げ捨て、背をむける政策を取ったトルコは、この地域でのすべてのグローバルな関係を決定するパワーによる天然資源の分配過程の中で、そこでの五百年続いた(オスマン帝国の)支配権がもたらした利点を十分に活用されていない。この唯一の例外は、フランスの撤退により発生した空白と第二次世界大戦の前の混乱に巧みに乗じたアタチュルクのハタイ作戦であった。
 トルコは、中東に対して、特に経済地理的枠組において、背を向ける政策を取ることで、この地域での資源と力の分配を決めるにあたって静的パラメーターだけを勘案しており、文化的意味で疎外されたこの地域の民衆にも、政治的エリートにも十分な影響を行使することができないでいる。しかしトルコには、この地域を放棄したオスマン帝国の生き残りの知的‐政治的エリートと、その歴史的伝統、その様々な共同体の間の文化地理的同質性があり、柔軟に対応すれば、それらの長所それだけで中東に対する戦略の礎石となりうる。ダマスカスやバグダードのようなアラブの多くの大都市では最近までトルコ語で普通にコミュニケーションがとれる社会階層が存続していたのである。トルコは、この階層との良い関係による影響力と歴史的な特権を有する地域国家であるとのイメージを形成しなければ、グローバル・パワーのいくつかの中心地の中東における代表として振る舞うことで、この地域での疎外感を次第に深めていくことになる。
 この疎外が進むことでトルコは、この地域における影響力を失うと同時に南東アナトリアを防衛しなければならない現実に直面させられる。国境を超えた優位性を効果的に活用できないでいるトルコは国境とその内部での自己完結性というヨーロッパ中心主義のテーゼを押し付けられている。更に悪いことには、今日のトルコは、この地域を500年間にわたり支配してきた歴史を有するにもかかわらず、この地域にわずか50年の歴史しか持たないイスラエルの諸々の戦略を裏書きすることで、この地域にかかわる政策において域内での疎外を深めてきたのである。イスラエルがシリアに対して行っている和平においてトルコのその資源の和平の諸要因の間にある地域でのダイナミックな利害関係がどこまで柔軟な対外政策の立場を必要としたケースをまたもっと見せる。
 この対外政策の弱点の全体という氷山の水面下には、心理的準備不足、戦略理論の見通しの欠如、ダイナミックに変化する条件に適応するのに障害となる硬直した外交的言辞、国内政治文化と対外政治の間の不調和などの様々な問題が隠れている。対外政策策定者は、なによりもまず、国境を超えた戦術を生み出しそれを固持するとの心の準備があることが必要である。そしてその心の準備には、国内世論をその方向に誘導する社会心理的文化とその正当性の基盤の統合が必要である。
 そのための心理的基礎は、トルコの地政学的、文化地理的、経済地理的事実から出発する理論枠組の起点であらねばならない。現在に至るまで、欠乏を認識する戦略理論は、欠乏の克服のためには、研究機関によって政策決定者の間に健全な関係回路が形成されなければならない。この戦略を適用するにあたっては、あらゆる種類のイデオロギー的言説の狂信を逃れることが最も大切である。バルカン諸国のムスリム・マイノリティー集団を反体制派への避難所と、すべてのロシア語学習者を共産主義者のエージェントと、すべてのアラビア語話者を反政府派か、保守反動とみなすような決めつけが、さまざまな現象の解釈に無批判になされるままにされてきたことは明白である。1980年代に中東に向けての輸出増大に対してアラビア語話者の不足をきたしたトルコは、今日ではカフカースと中東との関係において、ロシア語話者とロシア研究者の不足があらゆるレベルで痛感された。ロシアとの何世紀にもわたる戦争の歴史を有する民族(共同体)に現れたロシア語話者とロシア研究者の不足は、冷戦期のトルコの政治エリートの中が感じていた不安の典型的な兆候であった。この点で、トルコは、何よりも前に、国内の治安問題を超えて、接触状態にあったすべての地域と諸共同体を分析することができ、役に立つ人材の育成が必要である。
 それは、国内政治文化と対外政策の間の再調整が必要であることの最も重要な証である。民衆を信頼しその内部から生まれた民衆文化を統合するためにその力を引き出すことができないエリートは、国境を超えたグローバルな開かれた地平に向き合うことも、国内の治安と統一を守ることもできない。それゆえ歴史的連続性の重要な証の一つである戦略的思考において、心理的要素の問題は戦略の立案の中心になるのである。

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