2017年1月1日日曜日

「イスラーム国訪問記」(1)

「イスラーム国訪問記」(1)

 シリアへはエジプト留学時代以来何度も訪問しているが、これまでは首都ダマスカスにしか行ったことはなかった。ダマスカスを訪問の目的はウラマーゥ(イスラーム学者)たちとの意見交換が目的だった。ダマスカスで会ったウラマーゥの中には、前シリア・アラブ共和国最高ムフティー(イスラーム教義諮問官)故アフマド・クフタロー博士、現代アラブで最高のイスラーム法学者とみなされているワフバ・ズハイリー博士、アサド政権の御用学者としても知られた故ラマダーン・ブーティー博士、そして
そして知る人ぞ知るジハードに関する研究に於ける現代イスラーム学の最高峰『シャリーア(イスラーム聖法)に基づく政治に於けるジハードと戦闘(al-Jihād wa-al-Qitāl fī al-Siyāsah al-Shar’īyah)』の著書ムハンマド・ハイル・ハイカル博士もいる。
中でも前シリア・アラブ共和国最高ムフティー(イスラーム教義諮問官)故アフマド・クフタロー博士には、何度も自宅にお邪魔させていただき、いろいろな質問をさせていただいた。余談になるが、中でも貴重なのは、啓典の民であるキリスト教徒が屠殺した肉は食用が許されているので、キリスト教徒が国民のマジョリティーであるアメリカやオーストラリアからの輸入肉は食べても構わない、との書面のファトワー(教義回答)である。クフタロー博士が生きておられたら、ハラール認証を利権に変えて食い物にする詐欺師どもの跋扈を見てどう思われることだろう。
シリアでダマスカス以外に足を踏み入れたのは、内戦が本格化して以降、2013年の3月が初めであった。当時はまだエジプトで軍のクーデターでムスリム同胞団のムルスィー政権が倒される前で、タハリール広場でもカリフ制再興について自由に演説することが出来た。エジプト留学時代からのジハード団の旧友でカリフ制再興を訴えるムハンマド師の弟子たちがアサド政権を打倒しカリフ制を樹立するためにジハードをしにシリアに渡った、と聞き、彼らに会ってジハードの実情を見に行こう、と思っていた。そこでイスタンブールのスルタン・アフメト・ファーティフ大学文明連帯研究所でワークショップに参加する機会があったので、足を伸ばして国境の町キリス経由でシリアに入ることにしたのだった。
それ以降、2013年8月、12月、2014年3月、9月と合計5回シリアに入っているが、今にして思うと、この時が一番楽な国境越えだった。というのはこの時は国境のシリア側を自由シリア軍が支配しており、国境が普通に開いていたからだ。国境の幹線道路ではシリアに荷物を運ぶ大型トラックが最後尾が見えないほどの長蛇の列を為していた。私もエジプトの友人から紹介されたエージェントに連れられて、乗り合いバスでシリア人に混じってパスポート・チェックもなく、シリアに入ることができた。当時は多くの反体制グループが割拠しており、いくつものチェック・ポイントを通過してムハンマド師の弟子たちが待つアル=バーブ市に入った。当時はまだイスラーム・カリフ国もその前身の「イラクとシャームのイスラーム国」(以下、ISISと略記)も存在せず、彼らはヌスラ(援助)戦線に所属していた。アル=バーブ市ではヌスラ戦線が最も力があったが自由シリア軍ほか、様々な武装勢力が雑居、共存していた。
我々を暖かく出迎えてくれたムハンマド師の弟子たちは、3LDKのアパートに数名のほ若いムジャーヒディーンたちと一緒に暮らしていた。彼らの同居人はチュニジア、モロッコ、スーダン、サウディアラビアなどで、多国籍ながら全員アラブ人だった。同行者がトルコに帰らなくてはならない予定があるため3日しかいられなかったが、その間は、彼らのアパートに泊めてもらった。客室などはなく、一緒の食事を摂り、皆で雑魚寝だった。ムジャーヒディーンといっても、最前線にいるわけではない彼らは基本的に暇を持て余しており、部屋でプロレスごっこなどをしていた。要するに運動部のノリであり、いわば終わらない合宿なのである。
月給はこの時は僅か約3000円。それでもムジャーヒディーンには住居が無料で支給されるので、主食のパンが1枚3円と物価が安いシリアでは十分暮らしていけるらしい。第一、お金を使う遊興施設もなければ、女の子とデートなど考えられないムジャーヒディーンにはお金の使い道がない。
アル=バーブ市は町外れの丘の上で時々トルコの携帯電話が通じることもあるが、市中は電話回線は一切繋がらない。しかし町中にネットカフェがあり、彼らはインターネットで外界とアクセスしていた。電気は一日に数時間停電しており、時に断水した。もっとも、日に数時間の停電や時々の断水はアフガニスタンの首都カーブルで暮らしたときもそうであったが、慣れればそう不便には感じなくなるものだ。
この旅では戦場を見ることはなかったが、武器工場を見せてもらった。元は小さな町工場だった、という鉄工所で、手作り感一杯の迫撃砲や砲弾が並んでいた。爆薬は不足しているので、なんとシリア政府軍の空爆の不発弾や、第一次世界大戦でイギリス軍が埋めたのを掘りおこした地雷から火薬を抜き出して使っているという話だった。
 精強で知られたヌスラ戦線だったが、実は兵器は不足していた。予想に反して武器市場は機能しておらず、彼らの武器はもっぱら戦闘で鹵獲した戦利品だ。つまり市場に流れた鹵獲品を買うしかないとのことで、彼らの中にも自分の自動小銃カラシニコフを持っておらず、出陣する時には非番の仲間のを借りている者もいた。カラシニコフと言えば100ドルから200ドルが世界の相場だが、シリアでは1000ドルの高値だった。ちなみにチェコ製拳銃は400ドル、ロシア製の軽機関銃は8000ドル、スナイパーライフルは9000ドル、RPGは500ドルで砲弾は300-700ドル、迫撃砲は1000―3000ドル、砲弾は1000ドル、手榴弾50ドルということだった。
 2回目にシリアに入ったのは2013年の9月でカタル、エジプト、トルコでの調査のついでに足を伸ばしたのだが、この時の国境越えはやはりキリスからだったが別のルートで、徒歩で鉄条網を超えてだった。鉄条網を超えると言っても、下に人が屈んでくぐれるほどの穴が掘ってあり、そこを通り抜けるだけだ。一応、国境警備隊がパトロールしており、彼らが居なくなってから急いで渡るのだが、鉄条網越しにトルコ側の住民とシリア側の住民がのどかに歓談しており、国境警備隊も仕事なので一応見回ってはいる、という風情で、完全に黙認状態だった。
 しかし、シリアに入ると情勢は一変していた。2013年4月にイラク・イスラーム国が、「ヌスラ戦線は自分たちの下部組織であったがこの度正式に合併し、今後はISISを名乗る」と宣言したが、ヌスラ戦線が合併を拒否し、両者は分裂し、抗争が始まっていた。アル=バーブ市はISISがほぼ掌握していたが、ムハンマド師の弟子の友人たちはISIS側に移籍していた。しかし彼らの友人や親戚の中にはヌスラ戦線に残った者もいて、相互に交流があり、アル=バーブ市に限って言えば、その時点では両者はまだ共存していた。それ以上に大きな変化は町の雰囲気で、3月にはあった「外国人」ムジャーヒディーンに対する市民の歓迎ムードは完全に消え、終りの見えない内戦に疲弊した市民の中には、「外国人」ムジャーヒディーンこそが内戦の原因だと考え、冷たい視線を投げかける者や、あからさまな敵意を向ける者が増えていた。特にこの時に知り合った非アラブのカザフスタン人のムジャーヒドは、「シリア人は全く信じられない。いつ寝首をかかれるか分からない」と言って、一歩でも家を出る時は決して拳銃を手放さなかった。
 私がアル=バーブ市に入った翌日、シリア政府軍がアル=バーブ市を空爆し、それに呼応して町に残っていたシャッビーハ(新アサド派民兵)が攻撃を仕掛けてきた、ということで、友人たちも戦闘に駆り出されることになった。そこで、「ここは危険になった。安全を保障できないので直ぐにトルコに戻ってほしい。」と言われた。戦闘に巻き込まれて殉教死するのは大歓迎だが、武器も扱えないばかりか満足に歩ることもままならない役立たずの私が側にいて彼らの足手まといになるのは不本意の極みなので、予定を早めに切り上げてトルコに戻ることにした。
 3回目にシリア入ったのは、2013年12月だった。15日にインドネシアで解放党のカリフ会議で発表、20日にトルコのISAR(イスタンブール研究教育基金)主催の国際会議で発表があったので、その合間に駆け足でシリアに入ることにしたのだ。この時は、前々からジャーナリストのシャミル常岡さんの知人で「イラクとシャームのカリフ国」の越境担当司令官のウマル・グラバー師から「是非会いたい」と言われていたので、彼を訪ねてみることにした。
この時はトルコのハタイから川を渡って越境することになった。川といっても、川幅は20メートルほどしかなく、寒い中を子供が水遊びで泳いでいるのを横目に、両岸に渡した太い綱をつたって大きな盥のような船で越境した。人間が渡っている横で、ポリタンクに詰めた原油が同じ盥の船に積まれてどんどん輸送されていた。ここでもトルコの国境警備隊のパトロールの車はやはり申し訳程度に数十分間隔で回って来ていた。そのだけ間は渡し船の動きは止まるが、パトロールの車が対岸をゆっくり通り過ぎていく間も、シリア側では人間は身を隠さず、また石油のポリタンクも隠そうともせず、彼らの姿が見えなくなるや否や渡河を再開する。トルコ側が黙認しているのはここでも明らかだった。
その日はサルキーンのウマル師の家で夕食をご馳走になり、離れに泊めていただいたが、翌朝、アル=バーブ市のエジプト人の友人たちが私に会いにやって来た。1悪路を車を飛ばして、150キロも離れたアル=バーブから会いに来てくれたのを断るわけには行かないの。明日、クワイリス軍用空港の攻撃作戦があるから一緒に行こう、ということでアル=バーブに連れて行ってもらうことになった。
3回目のシリア入りで初めて戦場に足を踏み入れることになったわけだ。ところが朝早く出撃のはずが、結局だらだら昼食まで食べてから友人のムジャーヒディーンたちを車で拾っておもむろに出発。武器庫でピックアップトラックに乗り換えて、組み立て式の迫撃砲を積んで空港に向かう。空港の近くに行くと、検問所で覆面の兵士たちに「テロリスト(イルハービー)ども、何しに来たんだ?」と呼び止めらた。すわ、政府軍と遭遇か、とビクッとしたが、彼らの顔は笑っており、仲間のムジャーヒディーンで、空港を包囲している部隊だと分かり安心した。安心はしたが、友軍の間でも横の連絡も上からの指示も全くなく、数人単位の小部隊が気まぐれで攻撃を仕掛けていることも分かってしまった。もっとも連絡を取ろうにも携帯電話の電波がないので連絡の取りようもないのだが。
結局、空港から1キロほど離れた低い丘の影に運んできた迫撃砲を据え付け、小一時間かけて10発の砲弾を撃ち込んでゆうゆうと撤収した。空港側からも迎撃の砲声、銃声が聞こえるが、丘を隔てての盲撃ちなので近くに着弾した気配は全くなかった。実はこちらの攻撃も同じで敵側に損害を与えた様子は全く見られなかった。
「砲弾一発が1000ドル、これで10000ドルが無駄に消えたのかー、あぁ勿体ない。」が初めての戦場体験の感想だった。
 クワイリス空港攻撃作戦から無事生還して、エジプト人の友人たちに送られて、サルキーンのウマル司令官の許に戻り、ウマル司令官に連れられて、イドリブ県知事のウマル・ミルアート司令官に会いに行きISISの施政方針などにつき一時間ほど懇談した。
特に話題になったのは、その時点で、既にアブー・バクル・バグダーディーがカリフの別称でもある「アミール・アル=ムウミニーン(信徒たちの長)」を名乗っていたことだった。ウマル・ミルアート知事は、あくまでもアブー・バクル・バグダーディーはISISの指導者であって、全ムスリムのカリフではない、と説明してくれた。そしてそれが正しかったことは、2014年6月末にアブー・バクル・バグダーディーが改めてカリフ就位を宣言したことで証明されることになる。
 ウマル・ミルアート知事は私が初めて会ったISISの高官だったが、30歳そこそこの若者ながらが、笑顔を絶やさず私のただたどしいアラビア語の言葉に静かに辛抱強く耳を傾け、気負いもてらいもなく誠実に応対してくれた。ウマル・ミルアート知事は、30年を超えるアラビスト人生の中で、私がこれまで会ったアラブ人の中で最も気持ちのいい好青年だった。彼との出会いは、独善的、権威主義的、残酷な狂信者、といったISISの指導部のイメージを完全に覆すもので、彼のような人材がいる限りISISの未来は決して暗くはない、との希望を持たせてくれるものだった。
 翌日、慌ただしくまた盥の船で川を渡ってトルコに戻り、イスタンブールでのISARの国際会議での発表の冒頭で、私がISISの支配地を訪れたこと、彼らがカリフ制再興を目指して国作りをしている現場をこの目で見て、イドリブ州知事と意見交換をしてきたことを報告し、日本に戻った。
 そして今回のイスラーム・カリフ国訪問で、私がこの時イスタンブールでISISについて客観的で好意的な報告をしたことがイスラーム・カリフ国の指導部に伝わっていたことを知ることになった。(続く)




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