2014年12月16日火曜日

報恩のイバーダ(勤行)

シーア派のハディース集『ウスールルカーフィー』に預言者sの妻アーイシャが誹謗される文脈以外で言及されることは稀ですが、以下のハディースはその稀有な例です。勿論このハディースはスンナ派のハディースにもある真正なハディースです。

アブー・バスィールがアブー・ジャアファル(第5代イマーム)から伝えるところ。

「アッラーの使徒sがアーイシャの許におられたその夜、彼女が『アッラーの使徒よ。アッラーはあなたの[罪のうち先行したものも、後回しになったもの](48:2)も赦されたにも関わらず、何故あなたは(夜の礼拝で長時間立ち尽くして)ご自身を疲弊させるのですか。』と尋ねたところ、彼は『アーイシャよ。私は深謝する僕ではないか』と彼は両足の爪先で立ったまま言われた。するとアッラーはこう垂示されました。[ター・ハー。われらがあなたにクルアーンを下したのはあなたに苦労させるためではなく、](20:2)。」

 預言者は天国での救済と無限の報奨が約束されていたのになぜ他人より多くの勤行に励むのか、と問われて、罰の恐怖や報奨欲しさではなく、アッラへの感謝の気持ちからである、と答えられたのです。
 そのことを分かりやすく説明したのが、次のジャウファル・サーディクの言葉です。

ハールーン・ブン・ハーリジャがアブー・アブドッラー(第6代イマーム・サーディク)から伝えるところ。

「まことに僕たちには3種ある。アッラーを恐れ崇拝した民。これらは奴隷(‘abīd)の崇拝です。報酬を求めアッラーを崇拝した民。これらは雇い人(ujarā’)の崇拝です。アッラーを彼への愛のために崇拝した民。これらは自由人(ahrār)の崇拝であり、これが最高の崇拝です。」
 
 この言葉はスンナ派のスーフィーの間でも有名な格言になっており、現在もよく引用されます。
 特に日本のように、シャリーアの学知もなくまたシャリーアが法として社会で施行されてもいない地では、イスラームの教えはこのハディースにあるように自発的な感謝と喜びから行われるように説くのが正しい宣教のあり方だと思います。
 実は、これは以下の歎異抄の言葉にある報恩念仏の考え方にも通じ、日本人の宗教心の中にもすでに組み込まれているので理解も容易だと思います。

「この悲願ましまさずは、かかる浅ましき罪人、いかでか生死を解脱すべき、と思いて、一生の間申すところの念仏は、皆悉く「如来大悲の恩を報じ、徳を謝す、と思うべきなり」(歎異抄14章より)
 الله أعلم