2017年11月12日日曜日

『フトゥーワ』出版記念講演 要旨

『フトゥーワ』出版記念講演 要旨
2017年11月11日 イベントバー・エデン     
 中田考(同志社大学客員教授)

1.「フトゥーワ」
「フルースィーヤ馬術」≒「ムルーアおとこらしさ」≒「フトゥーワ若々しさ」
騎手、男性、若者という特定の集団に特有の気質、倫理、理想像などを表す語になった。
イブン・カイイム(1350年没)『ムハンマドのフルースィーヤ(騎士道)』(注)
「フルースィーヤと勇敢さには二種類ある。最も完全なものは宗教と信仰の持ち主のものであり、もう一つは全ての勇者に共通するものである。本書はムハンマドのシャリーアに適った騎士道について纏めたものであるが、それは心と身体を共に捧げる最高の崇拝の形態であり、その徒を慈悲深き御方(アッラー)のための戦いに駆り立て、楽園の最上階に導くのである」
2.スラミー
アブドゥッラフマーン・スラミー(1021年没)
ニーシャープールで活躍した高名なハディース学者であり、イスラーム思想史上初めてスーフィーの立場からクルアーンの注釈書を書いた。多くの弟子を育てたが、中でも有名なのは同じニーシャープール出身の古典教科書『クシャイリーの書簡』の著者クシャイリー。
3.スーフィズムとは
スラミー『スーフィズムについての序論』
「(スーフィズムの要件)現世における禁欲、念神(ズィクル)と崇拝の励行、人々に依存しないこと、僅かな飲食や衣服で満足すること、貧しい者たちの世話、煩悩の滅却、勤行(ムジャーハダ)、謙抑(ワラウ)、常に志を高くもつこと、最小限しか食べず必要なことだけを話し睡魔に襲われた時だけ眠ること、自己反省、被造物(人間)から遠ざかり疎遠になること、導師たち(マシャーイフ)の拝顔、モスクで時間を過ごすこと、粗衣の着用」

(注)勇気は人間の性格の中の高貴な性格の一つであり、以下の四つの形で結実する。(1)果敢であるべきところでの果敢さ、(2)自重すべきところでの自重、(3)堅忍であるべきところでの堅忍、(4)転身すべきところでの転身。その逆は勇気の瑕疵であるが、それは臆病、無分別、軽薄、放心である。そして見識と勇気を兼ね備えた男こそが、軍隊を率い戦事行政を行うことができるのである。人には、「男」、「半人前」、「なにものでもない者」の三種がある。「男」とは正しい見識と勇気を兼備した者である。・・・「半人前の男」とは、二つのうちの一つを有するが他方を持たない者であり、「なにものでもない者」とは、どちらも欠く者である。・・・    ムジャーヒド(聖戦士)には5つの特質がある。どんな軍であれそれらが揃えば、相手の多寡にかかわらず、神佑に恵まれずにはいない。第1:堅忍不抜。第2:至高なるアッラーを多く念ずること。第3:アッラーと、アッラーの使徒への服従。第4:合意があり、失敗と弱体化を招く内紛がないこと。第5:その全ての要、支、そして基礎であるもの、即ち忍耐である。これら5つの上に勝利のドームが建てられる。

2017年11月2日木曜日

ダウトオウル『戦略的縦深』第一部 2章 2節 3.心理的背景:自我の分裂と歴史意識


3.心理的背景:自我の分裂と歴史意識
 戦略理論の欠如の重要な要素の一つは、心理的不安定の原因となるアイデンティティーと歴史意識の間の矛盾とその矛盾が戦略思想に与える影響である。既に心理学の古典となったレインの『引き裂かれた自己』がこの問題を解明する出発点になる。自我の分裂に道を開く心理的危機を究明するこの作品は、心理学以外にも利用できる多種多様な分野における危機を分析する重要な概念と方法論の道具立てを提供している。特にレインが明らかにした実存的安心と自我の関係と、「具体化された(embodied)自我」と「具体化されない(unembodied自我」を区別することで立証したクリティカルな領域、とりわけ政治の領域における多くの問題に関する我々の理解を容易にしてくれる。
 レインは、心理学的危機の根本には、個人の実存とその自我の結びつ断絶が見出されると述べ、そしてその断絶が不可避的に自我の分裂をもたらすことを解明した。自己の実存を疎外する人物は、やがて、自我の諸要素の統合性を失う一方で、他者に対しては自己を統合的に見せかける虚偽自我(false-self)の像を作り出す。内的自己(Inner self)と外的自己(embodied self)の間に裂け目が開かれると、危機は深刻化し、自分自身と外部環境の双方との間で発生する危機の迷路に入り込んでしまう。
 トルコで起きている多面的な危機もまた、内的自己と外的自己の間の分裂の所産とみなされる。共同体のレベルで、個人の実存に対応するものが、その歴史と地理の次元である。共同体が歴史と地理の次元で自己疎外を起こすと、個人が自己疎外を起こして、虚偽自我に陥るのと似ている。周知のように小学校から歴史と地理の教育に多くの時間が割かれているにもかかわらず、我々は一種の没歴史化の時代を生きている。記念日や祭日を祝うことは我々の歴史の知識を強化する代わりに、超歴史的分野への方向性に道を開いている。1998年にはトルコ共和国建国75周年、1999年にはオスマン帝国建国500周年が祝われた。しかし共和国の10周年行進曲やオスマン帝国のトルコ行進曲(mehter)は、メタ歴史的レベルでの認識を超えて、今日まで連なる我々のアイデンティティーのさまざまな全ての要素を統合する個人アイデンティティー意識と社会的全体性によって、我々は表現することができるだろうか?
 伝統の諸要素を受け入れずに、我々のアイデンティティーを偽装すれば、その対極をもたらすことになる。そして内的自己からかけ離れた虚偽自我に続き、隣接する別人たちと同一化しするうちに、ついには、「他者」、敵さえも生み出すことになる。我々の聖なるシンボルのためには戦いも辞さず、引き裂かれた自己の裂け目を埋めようとするが、歴史と地理の次元のすべてを断ち切った新たな引き裂かれた自我を生み出したことには気付くことができない。
 内的自己と外的自己の間の裂け目を覆い隠すために、安っぽい勝利に酔い、同じように安っぽい退廃に陥る。我々はサッカーの試合でのトルコの勝利に10周年行進曲に熱狂し、フィンランドに負けたことを審判の贔屓のせいにしている。それゆえ、自分たちの成功を訓練された努力の成果とみなすことも、失敗から学ぶこともできず、事実ではなく事実を超えた心理に目を向け、個人のレベルでの問題においてと同じように、自分たちの実存、つまり歴史を疎外し、また自分たちの環境、つまり地理的次元も断絶するのである。
 歴史の記憶と意識が弱い共同体は、その歴史に実存を記銘することが非常にむつかしい。歴史の方向を決める場合、主体的で活動的な共同体と、歴史の成り行きまかせの主体性を欠く受動的な共同体の間の極めて重要な違いもまた歴史的認識の型である。
 歴史の意識と記憶が深い共同体は、思いがけない勝利に浮かれることも、敗北主義に陥ることもない。歴史経験から得た情報と現実の力の配置の間に、戦略的合理性と予想に基づく有意味な関係を構築し、慎重に未来図を描くのである。歴史の意識と記憶が弱く受け身で主体性がない共同体は、取り残されるか、取るに足らない成功に酔ったり些細な失敗に落ち込んだりを繰り返す心の弱さから、戦略的決定を下すことができなくなる。それゆえいつも浮沈を経験しするが、成功も失敗も他人次第なのである。
 この観点から見ると、さかんに議題にのぼったセーブル条約の共和国建国75周年記念とオスマン帝国建国700年記念が重なったことは意味のある一致である。セーブル条約はオスマン帝国とトルコ共和国の間の「狭い海峡」である。この「狭い海峡」を我々が生き、乗り越えてきた。しかし生きてきたということは、我々がその間ずっとこの「狭い海峡」の恐怖の中で生きてきたということではなく、またこの「海峡」を乗り越えるにもずっと勝利の思い出に浸っている必要はない。
 フランス人は今日の存在を続け、戦略的計画を立てるのに、ナポレオンの勝利をずっと思い起こして勝利に酔い痴れているわけでもなければ、ナポレオンの敗北の後のフランス人の命運を握ったウィーン会議の成り行きをいつまでも気に病んでいるわけでもない。同様にドイツ人も、ビズマルクとヴィルヘルム2世によるドイツのアイデンティティーと統一を実現した帝国的勝利が今もドイツの戦略的言説の中心をなしているわけではなく、またセーブル条約が我々を陥れた「狭い海峡」にも似た「狭い海峡」に陥れたヴェルサイユ条約を、自分たちの頭上でずっと揺れているデモクレスの剣のように見なし続けているわけではない。もっと近い過去の例を取るなら、ヒットラーの華々しい軍事的勝利と、その勝利の後の全世界にドイツ民族を軽蔑させ、破壊し、呪わせた敗北を共に経験したアデナウアー、シュミット、コールのようなドイツの指導者たちが、このような勝利-敗北の振り子の不可避の振幅に一喜一憂していたなら、はたしてドイツは今日、歴史の舞台の上、歴史の流れの中で、再び重きをなす国となることができたであろうか。
 戦略意識は歴史に、戦略計画立案はその時点でのリアリティーに基づかなければならない。
我々にとってのセーブル条約の記憶と認識は、それに至る過程における我々の問題点を視野に収めた分析によって、評価を下すことができるなら、意味あるものとなる。しかし逆に我々を金縛りにし自己弁護に終始させるような心的トラウマに突き動かされていては、前に進むことはできず、新しいセーブル条約への道を開くことになるのである。物事を歴史の流れの中において見ることができるほど、我々は弱点を克服することができる。
 グローバルな、あるいは地域的な野心を持つ国家はしばしば何世紀にもわたる歴史的、地理的、文化的な土台である定数に根差していればいるほど、繰り返しダイナミックに解釈されうる長期的なビジョンを有する戦略思考に基づいた未来志向の戦略計画を立てることができる。対外的な脅威の認識については、長期的な戦略を短期的な戦術に落とし込むことができ19世紀には「太陽が沈むことがない」帝国となったイギリスには長期的で野心的な戦略があったが、力をつけた大国となったドイツがこの(イギリスの)戦略に挑戦する脅威として認識された。第二次世界大戦後、グローバルで野心的なアメリカの戦略が練り上げられたが、ソ連の脅威がこの戦略を妨げる脅威として認識されることで戦術が査定され決められた。日本には太平洋戦略、ドイツには7B(ベルリン-ブダペスト-ベルグラト-ビュクレシュ-ボアズラル-バグダト-ボンベイ)ユーラシア戦略があったが、ドイツも日本も何世紀にもわたるその遠大で野心的な戦略には短期的な脅威の認識が欠けてはいなかった。手段は変わっても、戦略の基本と優先事項は不変なのである。
 野心のある国家はその戦略に従って脅威を認識するが、主体性がなく受け身の国家は脅威の認識に左右され近視眼的な戦略を立てる。国家は、理由が何であれ、内部矛盾こそが戦略の基本であると明言している限り、その国が二度と弱体化することはありえない。
 他の国の経験からこの問題を自問すれば、この問題をより明らかに理解することができる。IRAの存在の脅威は、少なくとも3世紀にわたって、イギリスの国家戦略、軍事戦略の認識を規定してきたのではなかったか。オクラホマ連邦政府ビル爆破事件(1995年)を起こしたキリスト教原理主義白人優越主義民兵の存在を理由に、グローバルなアメリカの国家的、軍事的戦略がこの民兵たちによって再構築される必要があると言う戦略家が、アメリカでいかなる戦略研究機関に就職できるだろうか?冷戦期にドイツで活動的であった極左テロ組織は、ドイツの東西戦略の中でどう位置付けられていたのか?あるいは国家の内部矛盾を基本的な戦略の優先事項とみなしているようなら、影響力のある戦略を実効に移すことができる野心的な大国の一つになることができるだろうか?わかりやすく、我が国の歴史を例に取ろう。16世紀の「オスマン帝国の時代」を作ったオスマン帝国の大陸と海洋の戦略はこの世紀に広まった「ジェラーリーの乱」を基本とする土台で組織化されるなら、オスマン帝国のこの政界での秩序を作る主張である「世界秩序(Nizam-ı Âlem)」構想など、笑うべき非現実的なレトリック以上のものであったであろうか?
 この国の戦略を単なる一極の外敵脅威とみなす視野狭窄は、内的脅威によって認識するなら、仮想敵国を利する弱点となる。ポスト冷戦期の歴史的地理的深みを有するダイナミックなトルコの戦略の定義と実行が必要な時代に、制度的、歴史的、心理的要素によって、トルコの内部矛盾による衰退過程を説明することは、トルコ民族の全ての力を動員する共通戦略構築に対する最も深刻な障害となるのである。

2017年10月19日木曜日

ダウトオウル『戦略的縦深』第一部 2章 2節 2.歴史的背景

2.歴史的背景
 このグローバルなアプローチと戦略理論の欠如の制度的弱点を生んだより深い原因は歴史的体験の蓄積の中に求められなければならない。それは歴史的体験の最も顕著な特徴の一つであるオスマン‐トルコ帝国の対外政策の伝統の帝国主義‐植民地主義的戦略を実施していないことの中に見出すことができる。 
 大国が古典的国家戦略を発展させた19世紀は、植民地の世紀だったが、この19世紀のオスマン帝国にとっての懸案は、国家の一体性の維持とこれ以上の土の喪失を防ぐことに他ならなかった。そしてこれが、国境の内部だけに限定した防衛戦略という現状維持のアプローチがやがて対外政策の慣行となるに至る端緒となったのである。大国はこの理論枠組に則った戦略に従い、国境の内側に留まり、その新しい均衡の維持に努めることになった。
 このように失われた全ての部分の後に手に残ったものが守られたことに不安、混乱、恐れ、の中に居れられた、それで国境を超えた領域との関連は切断される。トルコ行進曲の「敵から故地へ」のリフレインのノスタルジックなメロディーの両極の戦略の間で選択がなされる。絶対的な支配か、絶対的な放棄か、となり、支配権が失われた土地は直ちに放棄される一方、新しい国境は死に物狂いで防衛するようになったのである。それが、絶対的な支配と絶対的な放棄の中間の影響領域を作り上げたり、国境を国境を超えた外交によって守ったり、戦略によって同盟したり、放棄せざるをえない領土は自己の戦略に近い政治エリートに委ねたり、大国の間の紛争を利用しながら戦術的可動域を確保するような中間的戦術の余地をなくしてしまう。
 これ、オスマン帝国の衰退期の重要な例外の一つであるアブデュルハミト2世が模索した植民地政策である。アブデュルハミト2世の植民政策は(世界の)ムスリムたちに国境を超えて影響し、列強のオスマン帝国に対する浸食政策を一定程度防ぎ遅らせることができた。この理由で、アブデュルハミト2世の33年間には、93回の戦争があった他には、深刻な領土の喪失はなかったが、この中間的を放棄し、「絶対的な支配権か絶対的な放棄」政策を復活した「統一と進歩委員会(青年トルコ党)」の治世に、オスマン帝国は、大国としての存在を、とりわけその最後の支えであったバルカン-中東中軸を、わずかな間に失ったのである。
 この両極端の間の行きつ戻りつは、その結果として、オスマン-トルコ帝国の対外政策の伝統であったグローバルな戦略的地平を狭め、戦術的選択肢を減らし、近い地域に対する影響力を失い、内政における矛盾を外敵の脅威に転嫁する悪循環に陥った。尚、重要性は、対外政策の必要性、と国内政治文化の間の調和的各種多様を実現させない。それゆえ、国内政治で支配的になったイデオロギー的言説とプラグマティズムが、対外政策の必要性を棚上げしたのである。
 件のオスマン-トルコ帝国の19世紀における対外政策によって例証することができる。この時期のバルカン諸国、カフカース、中東の政治は、絶対的な支配権と絶対的な放棄の間に挟まれたこの戦術の不毛性の好例である。例えば、バルカン諸国を放棄してから後は、オスマン-トルコ帝国の対外政策の伝統におけるこの地域に対する関係は、絶対的放棄の特徴に数えられえる移民に限られることになった。豊かな天然資源を有する中東とアラブ地域を放棄してから後は、イデオロギー上の連環のある東方に背を向ける政策が実行された。シャイフ・シャーミルの(反乱の失敗の)後にカフカースがロシアに引き渡されて以降は、カルス、アルダハン、エルズルム台地の防衛が懸案となった。国際法上も議論があるモスルとキルクークの放棄の後では、この地域での完全に放棄された土への野望が、絶対的支配権を死守すべき東アナトリアに否定的な影響をあたえないように努めた。最終的(1911年)に植民地主義者に奪われたリビアの西トリポリの抵抗戦の後には、北アフリカの喪失が続くことになるこの地域に対する一方的なの関係は、50年後に共産圏に対して我々が西側の友好国であることの証としてアルジェリアのムスリム(の独立闘争)に対してフランスの植民地主義者を支持するという形で示したのである。
 バルカン諸国を放棄した後、オスマン帝国が残した文化的、政治的意味での資産の維持に十分な熱意を示さなかったように、国内の政治文化的変化の否定的な影響によって、オスマン帝国の歴史の遺産とイスラーム文化の影響を失うことに為す術がなく、特にブルガリアとギリシャでそうであった。トルコ外交の政策決定者たちは、ブルガリアでのオスマン帝国の遺産である文化の立脚点としての様々な宗教施設の抹消に対して抗議しないままに、政治文化の国境を越えての影響を及ぼすべき関係の範囲について誤った判断を下したが、その結果はジブコフ(ブルガリア総書記)時代の同化運動によって明らかになった。
 ポスト冷戦期においてもそれが続いていたことがボスニア政策において明らかになった。対外政策において影響力があった一部の政治家が、ボスニア紛争の最初の局面でイゼトベヴィッチのイスラームのアイデンティティーを嫌って、フィクレト・アブデチュのような世俗の指導者たちをトルコが支援すること望んだ。後になってアブデチュがセルビア人の側についたことがバルカン諸国のイスラームのアイデンティティー及びオスマン帝国の遺産とトルコの域内政治との間の不可避の従属関係を作り上げた。バルカン諸国で破壊された全てのモスク、解散させられた全てのイスラーム組織、文化の領域で消された全てのオスマン帝国の伝統の一つ一つが、トルコがこの地域での国境を超えた影響力の名残の礎石なのである。トルコはバルカン諸国での絶対的放棄のシンボルになった移民の政策の代わりとなるオルタナティブの中庸の政策を取らねばならない。この中庸の政策の土台となっているバルカン諸国のオスマン-イスラーム文化の存続が不可避である。特にバルカン諸国におけるオスマン臣民の子孫の二主要民族、つまりボスニア人とアルバニア人の独立国家を持とうとの試みは、その自然な同盟諸国とトルコの間にある共通の歴史的文化の絆の土台によって支えられていることが必要である。
 トルコは、バルカン諸国の政策を、バルカン戦争の悲劇の苦い記憶が織り成し冷戦のパラメーターが強化した東トラキアとイスタンブールを死守せねばならないとの心理的トラウマから解放しなくてはならない。この地域の新たな状況下での東トラキヤとイスタンブールの防衛は東トラキアをめぐる従来の同盟ではなく、バルカン諸国における国境を超えた影響下にある領域を外交的、軍事的意味で能動的な利用対象とすることを断念することによる。今日のバルカンでは地域的な規模での活動的な諸勢力が均衡状態を作り出しており、その自然な帰結としての中間的な形態を、柔軟でダイナミックに使いこなせる国々が影響力を増している。不活発で停滞した国はこの地域でのリーダーシップを失い、次第に孤立化していくのである。
 絶対的支配権‐絶対的放棄の二項対立という難題はコーカサスにおいては現実的である。実質的にはエルズルム高原の北東部分でありながら93年戦争以来現在にいたるまでカフカースにおいてはそれと似たような状態になっている。その時以来現在まで、オスマン‐トルコ帝国の対外政策の最も重要な課題は、ロシア-ソ連の拡張戦略においてアナトリアの地政学上の鍵であるエルズルム高原を南西に下ることを防ぐことである。それには、一つは失敗、他は失敗の二つの例外がある。エンヴェル・パシャ(陸軍大臣)の「アッラーフエクベル山脈の悲劇」を生み、カズム・カラベキル(1948年没、大国民議会議長)はロシア内部騒乱を見据えて実現させた活動の結果として、当時の2世紀の間で初めてコーカサスで攻勢に出てカルス・アルダハン国境周辺を取り戻し、ナフジュバン問題でも明確な保証を手にすることができた。この二つの例の帰結は、冒険と見通しのある攻勢との違いに関して、対外政策の担当者に対する重要な歴史の教訓となる。
 カズム・カラベキルによる成功は、絶対的支配権を確立しようとの大規模な軍事動員と絶対的放棄を代表する広範囲な人口移動とを調和させる政策の伝統の基礎となる柔軟性をも明らかにしている。危機的な状況を正しく認識し、時を見計らい、外交と軍事を組み合わせ、成功を収める有効な振る舞いができる。
 トルコが対コーカサス政策を長期にわたって放棄してきた最も重要な理由は、エルズルム高原の北東での影響力の回復の自信の欠如と新たな93もの戦争の悲劇を繰り返さないかとの不安に由来する弱気である。そのために、冷戦期に、NATOが策定した軍事戦略は単にエルズルム高原の南西の防衛のために設定された。拡大するロシアの同盟勢力を、コンヤ平原に至るまでに、どれほど弱体化させられるかを、計算したのである。
 トルコはこの心理的防衛機構のせいで、カフカース地方での自然の同盟者たちを強化し、ロシア人の内部矛盾を利用することに思いもよらなかった。カフカース諸国と中央アジアの問題で見られる政策の矛盾と準備不足の最も重要な原因はこの心理的欠陥である。
 トルコの対外政策策定者はこの臆病さを乗り越えてカフカースでも積極的で柔軟な攻勢が必要である。コンヤ平原へ下ることができると考えるロシアはチェチェンへの侵攻でさえ困難に直面した。これは誇大広告ではない。この状況の適切な条件の下での洞察力のある積極的な政策の成果を無視するなら、将来の東アナトリアの防衛にかかる費用は甚大になる。バルカン諸国になぞらえるなら、東トラキアとイスタンブールの防衛は、アドリア海とボスニア、東アナトリアとエルズルム防衛、北カフカースとグロズヌイから始まっているのである。
 トルコの中東政策には絶対的支配権‐絶対的放棄のジレンマと戦略計画の欠如が刻印されている。第一次世界大戦後、中東との政治‐文化‐戦略的橋渡しの役割を投げ捨て、背をむける政策を取ったトルコは、この地域でのすべてのグローバルな関係を決定するパワーによる天然資源の分配過程の中で、そこでの五百年続いた(オスマン帝国の)支配権がもたらした利点を十分に活用されていない。この唯一の例外は、フランスの撤退により発生した空白と第二次世界大戦の前の混乱に巧みに乗じたアタチュルクのハタイ作戦であった。
 トルコは、中東に対して、特に経済地理的枠組において、背を向ける政策を取ることで、この地域での資源と力の分配を決めるにあたって静的パラメーターだけを勘案しており、文化的意味で疎外されたこの地域の民衆にも、政治的エリートにも十分な影響を行使することができないでいる。しかしトルコには、この地域を放棄したオスマン帝国の生き残りの知的‐政治的エリートと、その歴史的伝統、その様々な共同体の間の文化地理的同質性があり、柔軟に対応すれば、それらの長所それだけで中東に対する戦略の礎石となりうる。ダマスカスやバグダードのようなアラブの多くの大都市では最近までトルコ語で普通にコミュニケーションがとれる社会階層が存続していたのである。トルコは、この階層との良い関係による影響力と歴史的な特権を有する地域国家であるとのイメージを形成しなければ、グローバル・パワーのいくつかの中心地の中東における代表として振る舞うことで、この地域での疎外感を次第に深めていくことになる。
 この疎外が進むことでトルコは、この地域における影響力を失うと同時に南東アナトリアを防衛しなければならない現実に直面させられる。国境を超えた優位性を効果的に活用できないでいるトルコは国境とその内部での自己完結性というヨーロッパ中心主義のテーゼを押し付けられている。更に悪いことには、今日のトルコは、この地域を500年間にわたり支配してきた歴史を有するにもかかわらず、この地域にわずか50年の歴史しか持たないイスラエルの諸々の戦略を裏書きすることで、この地域にかかわる政策において域内での疎外を深めてきたのである。イスラエルがシリアに対して行っている和平においてトルコのその資源の和平の諸要因の間にある地域でのダイナミックな利害関係がどこまで柔軟な対外政策の立場を必要としたケースをまたもっと見せる。
 この対外政策の弱点の全体という氷山の水面下には、心理的準備不足、戦略理論の見通しの欠如、ダイナミックに変化する条件に適応するのに障害となる硬直した外交的言辞、国内政治文化と対外政治の間の不調和などの様々な問題が隠れている。対外政策策定者は、なによりもまず、国境を超えた戦術を生み出しそれを固持するとの心の準備があることが必要である。そしてその心の準備には、国内世論をその方向に誘導する社会心理的文化とその正当性の基盤の統合が必要である。
 そのための心理的基礎は、トルコの地政学的、文化地理的、経済地理的事実から出発する理論枠組の起点であらねばならない。現在に至るまで、欠乏を認識する戦略理論は、欠乏の克服のためには、研究機関によって政策決定者の間に健全な関係回路が形成されなければならない。この戦略を適用するにあたっては、あらゆる種類のイデオロギー的言説の狂信を逃れることが最も大切である。バルカン諸国のムスリム・マイノリティー集団を反体制派への避難所と、すべてのロシア語学習者を共産主義者のエージェントと、すべてのアラビア語話者を反政府派か、保守反動とみなすような決めつけが、さまざまな現象の解釈に無批判になされるままにされてきたことは明白である。1980年代に中東に向けての輸出増大に対してアラビア語話者の不足をきたしたトルコは、今日ではカフカースと中東との関係において、ロシア語話者とロシア研究者の不足があらゆるレベルで痛感された。ロシアとの何世紀にもわたる戦争の歴史を有する民族(共同体)に現れたロシア語話者とロシア研究者の不足は、冷戦期のトルコの政治エリートの中が感じていた不安の典型的な兆候であった。この点で、トルコは、何よりも前に、国内の治安問題を超えて、接触状態にあったすべての地域と諸共同体を分析することができ、役に立つ人材の育成が必要である。
 それは、国内政治文化と対外政策の間の再調整が必要であることの最も重要な証である。民衆を信頼しその内部から生まれた民衆文化を統合するためにその力を引き出すことができないエリートは、国境を超えたグローバルな開かれた地平に向き合うことも、国内の治安と統一を守ることもできない。それゆえ歴史的連続性の重要な証の一つである戦略的思考において、心理的要素の問題は戦略の立案の中心になるのである。

2017年10月13日金曜日

ダウトオウル『戦略的縦深』 第一部 第1章 Ⅱ.戦略理論の欠如 組織的、構造的背景


Ⅱ.戦略理論の欠如

 トルコの対外政策の最も重要な弱点の一つは戦略的及び戦術的行動を首尾一貫した枠組の中で組み立てていないことである。つまり、異なる地域での戦術的行動と適合した上位の戦略を立案することにおいても、戦術を段階的に組み立てることにおいても、深刻な弱点が存在するのである。その結果、そうした戦術的行動は、分を超えると戦略的意味を帯びてしまい、国家の前を塞ぎ、可動域を狭める結果を生む。

 内的に首尾一貫した連続性を示すと同時に変化してゆく条件に順応できる戦略理論をトルコの立案には相対立するさまざまな弱点があることには、歴史的、心理的、文化的、そして組織的原因があるのである。

 

  1. 組織的、構造的背景

 戦略理論の欠如には、直接的な制度の構造上の原因が存在する。そうした(戦略立案の)営為の制度的基礎である組織には、外務省、TBMM(トルコ国民大議会)、対外政策に関わるものとしてMGK(国民安全保障会議)、参謀本部、そしてその関連省庁のようなその他の官庁、大学、学術機関、政党、そして官立、半官、独立の研究機関がある。

 対外政策の政治的、行政的責任を負う外務省は、その責任の自然な帰結としての戦略の分析、説明、オルタナティブの検討において中心的地位を占める。しかし、戦略研究、戦略形成において、良い制度を備え、豊富なリソースを有する国家においてさえ、外務省が政治的、行政的性格を有し、オルタナティブの複数の対立する理論的枠組を設定することは、否定的な影響を与えうる。対外政策を司る組織の行政的性格に由来する通常業務は、律動し、広範囲にわたる深い戦略的分析の障害になることがある。

 一方、短期の政治的成果の方が長期的な戦略的な成果よりも影響力があり重要になるのは

外交政策を担う組織の政治的次元のせいである。この状況は他の公職にも当てはまる。他方、対外政策の中核をなす優先事項の社会政治的正当性の基礎となる国家機関、戦略アプローチは、優先事項の方向性を左右するのであり、そのために思想的、合理的過程であるべき戦略理論の研究も官僚的、国家的性格を帯びることになる。それもまた単調と停滞に道を開くのである。

 戦略理論とその理論による分析は、対外政策のオルタナティブが必要である場合に対応できるだけの有益性がある。単調で形式主義の戦略分析は自己限定による不毛なループに陥る。この形式主義的アプローチをイデオロギー的枠組にしてしまうと、不毛なループ、停滞を引き起こす。

 冷戦期のアメリカとソ連の戦略の相異なる成り立ちは、そのイデオロギー的枠組の比較の最良の教材である。硬化したイデオロギー上の但しさに還元する公式な戦略分析に頼るソ連の対外政策の単調さは、異なる起源に由来するために別のシナリオが可能になったアメリカの対外政策の柔軟性に対抗できなかった。ソ連の対外政策の官僚主義的な硬直した行為は、独立研究機関、戦略分析者たちの多くの視角を包摂する様々なアプローチを検討することができ、それに従って組織的行動を取ることができたアメリカの対外政策の、多くの選択肢を有するダイナミックな行為と対照的であった。ソ連は対外政策担当者たちが行動領域を狭めているときに、アメリカの対外政策担当者は新しい行動領域とそれを実行に移す主体を容易に見出すことができていた。

 トルコの対外政策の組織面を見るなら、何よりもまず外務省を筆頭とする国家機関が、戦略研究を遂行する十分な金銭的、制度的下部構造を備えていない。外務省はその組織の貧しい資能力の範囲内で要請に応じようと務める戦略研究センターは、この地域の他の多くの同種の組織と共に、準備期間がなかったトルコは国家として、人材の点でも組織の点でも多くの限界を抱えている。意思決定過程で戦略分析が必要であると考える外務省を筆頭とする国家組織が、そ戦略分析の必要を適える手段を備えており、官僚主義的に陥らないようにそれらの間で調整がなされることが、戦略理論分析の欠如を克服するために制度的に不可欠な条件である。

 ことなる政治的優先順位を有する諸政党がさまざまな優先事項を工夫し、実行可能な対外政策のオルタナティブを発展させ、そしてそれをTBMMのプラットホームに載せるのもトルコのオルタナティブ戦略研究を積極的に多様化するための重要なリソースとなる。このためにも政党自体が決まりきった日常業務の政治を超えて、長期にわたる行動の基礎となるためには、政治と外交のある意味での学校を持つ必要がある、

 政党がその内部に長期的なパースペクティブで国政の議題を準備することができるスタッフを抱えていれば、政権が交代しても、言論と政策アプローチの伝達において政治的意思を官僚組織に容易につなぐことができる。全く準備期間を経ていない野党のスタッフが政治権力を使える立場にアクセスすることは、政治意志を官僚機構のスタッフにつなぐコミュニケーションを破壊し、きわめてデリケートな言葉と慎重な動きを要する対外政策の実行に否定的な影響を与えることがある。相異なる対外政策を有するいろいろな政党を正しく知らしめる戦略アプローチを理論化し、議会に届けることは、対外政策の国論をより理性的に正しく方向付けることができる。一部の国でみられる「影の内閣」の制度は、継続性のある戦略と政策の研究に実効性を与えることができる。

 大学と独立研究機関の政策形成への参加は、この問題における長い伝統が存在することと、この参加を継続的なものとすることを保証する下部構造と、財政支援の保証を必要とする。こうした組織の知的生産と分析力の増加は、グローバル規模の戦略を展開する国の対外政策を支える最重要要素の一つとみなされる。国際関係が急激に変化する時代において国家戦略に新地平を開くグローバルな規模と内容を有する理論枠組の構築とその枠組を補完する地位的専門領域が成立すれば、ダイナミックな諸条件に素早く適合し、突発的自体にも適切に対応する対

外政策への反映が実現する。そうして作られた対外政策の優先事項の社会政治的な正当性の基礎形成にこうした組織が貢献していることも見逃されてはならない。大学は単なる教育機関の一つではなく、同時に研究機関とも見做されており、独立の研究センターが持続的な財政支援を見出しうる環境に参加することが、対外政策の社会的組織化の下部構造を構成する。

 トルコでは、経済のボトルネックによるにせよ、人口増加圧力が教育を必要とするためにせよ、大学は研究機関としての性格から遠ざかり、次第に国民教育と就職に役立つ高等教育機関に変わってしまったことが、大学が戦略理論とその分析を継続的に遂行することを妨げている。大学の構造の中で様々な分野で専門化のために設立された諸機関が十分な資金と機関に必要な物理的下部構造を有していないことが、そのユニットの組織化を遅らせ、この領域の空洞化の進行に道を開いている。この格好の例が、EUへのフルメンバーシップを申請した1987年以来現在に至るまで、数多くのECの機関が設立されたにもかかわらず、EUの多くの分野での専門家の不足を託っていることである。

 トルコで見られる戦略理論の欠如はまた、政治学者と政治実務家の間の制度的断絶の徴とも見做される。大学と学術環境はこの種の理論的営為が不足しているだけでなく、政治実務者である官僚や外交官との橋渡しをする有効なチャンネルともなっていない。こうした理由で、マハンとスパイクマン[1]によるアメリカのグローバル戦略、ハウスホファー[2]のドイツ、マッキンダー[3]の英露の戦略に関する影響の研究に類似した対外戦略の理論‐実践関係についてのアプローチは、トルコにはまだ存在しない。最新のフクヤマ[4]とハンチントン[5]の「新世界秩序」の思想や、その理論を、アメリカの政治実務家がグローバルな紛争に対して戦略的に使用することが正当であることを支持していること、及びキッシンジャー[6]やブレジンスキー[7]のような理論‐実践について独自の経験を有した戦略理論家がプロジェクトを立案していることが、この関係がどれほど重要であるかを示している。



[1] N.J. Spykman, The Geography of the Peace, New York: Harcourt Brace, 1944.
[2] Karl Haushofer, Bausteine zur Geopolitik, Berlin, 1928, Weltmeere und Weltmëchate, Berlin, Zeitgeschichite Vertag, 1941, Geopolitik des Pazifischen Ozeans, Heidelberg, Kurt Vowinckel Vertag, 1938.
[3] H.J. Mackiner, “The Geograhical Pivot of History”, Geographical Journal, 1904/23, pp.421-442.
[4] F. Fukuyama, “The End of History?”, The National Interest, 1989/16(Summer)pp.3-18,  The End of History and the Last Man, New York, The Free press, 1992.
[5] S. Huntington, “The Clash of Civilizations”, Foreign Affairs, 1993/72(Summer), 22-49, The Clash of Civilizations and the Remaking of World Order, New York , Simon & Schuster, 1996. Ahmet Davutoğlu, “The Clash of Interests; An Explanation of the World (Dis)Order”, Perceptions, Journal of International Affairs, Dec, 1997-Feb. 1998, 11/4, pp.92-121.
[6] Kissinger, Diplomacy(The New World Order Reconsidered), New York, Simon & Schuster, 1994.
[7] Zbigniew Brzezinski, The Grand Chessboard: American Primacy and Its Geo-strategic Imperatives, New York, Basic Books, 1997.

2017年10月9日月曜日

ダウトオウル『戦略的縦深』第一部 第二章:戦略理論 希少性とその解決 1.トルコのパワーの要素の見直し

第二章:戦略理論 希少性とその解決
1.トルコのパワーの要素の見直し
 近年ではしばしば、トルコの国際関係における正しいパワーの潜在力がどれほどの規模であるか、そしてそのパワーの潜在力が外交的視点からどれだけの規模で使用可能であるのかに関して議論がなされている。この問題における議論とアプローチは、両極端の間を行き来している。ときには静態的で場当たり的な評価によって、トルコが手に入れることができるパワーの潜在力は、実際より遥かに下のレベルで見積もられ、トルコにとって外部のパワーセンターが用意した政策を適用するように努める。また時としては逆に、トルコのパワーの定数と潜在的な変数は、新しい国際情勢における新規でダイナミックなパワーであるとの大いに楽観的な観測がなされる。
 90年代を特徴づけていた不安定な同盟関係にある国々の短期間に移り変わる行動と、対外政策における官僚主義のリスクを負わない外交の間を揺れ動き、戦術的行為が戦略的に統合されないこともまた、この問題において共通の観方が存在しないためである。「細くて長い道」で始まったEUの冒険も、「おお、入ろう、おお、入ろう」という態度と、「入らないこともある、唯一の選択肢がEUというわけではない、と人々は考えている」という考え方の間で行きつ戻りつしていた。希望に満ちて主張される「アドリア海から万里の長城まではトルコ世界である」とのスローガンは、時として中央アジア諸国さえも警戒させ弁解を要する危うさともなる。イスラーム世界に対する友愛と文化的紐帯の言葉は、東と南からやってくる脅威の認識と反対である。スローガンに過ぎない西洋への帰属と感情の籠った第三世界への帰属の間で板挟みの外交辞令は、外務大臣の気持ち次第で移り変わるものに過ぎない。
 この戦略的希少性の最も重要な原因は、対外政策の構造の主な要素としての、定数と潜在力の与件の視点の首尾一貫性のない変化によって、この与件を、魅力的な影響で、対外政策の影響に変わる戦略思考は、政治意志と戦略計画の主題における希少性である。短期間のラディカルな変化を示すことが可能でないことのために対外政策構造の定項要素である歴史、地理、文化、人口の要素の観点、政治エリート、官僚機構、平凡な市民の間の深刻な差異を示している。一つの集団が対外政策における最も重要な基礎とみなす歴史的、文化的諸要素が、別の集団からは、最も重い足枷とみなされた。(全ての当事者に)共有される視点で理解されるべきトルコの地理も深刻な差異の焦点である。またトルコが近くの圏域との統合を押し進めるべきであるとの思想と、できる限りこの圏域での影響を地域を超えて拡張し多面的に統合する必要があるという考えの間の対立もまた、もう一つの別の要素となっている。もっと客観的な人口についてさえも見解が一致しているわけではない。この点に関して、トルコの最も重要な資産である若年人口でさえ、時として最大の障害と否定的に評価されるのである。
 潜在力の与件という点でも、状況はそう違わない。政治的意思と行動に左右される短期間においてさえそれが変化することの好例は、定項与件と名付けた経済力、技術力、軍事力の最も戦略的な要素の一つであるエネルギー問題において見られる対応の不一致である。
 これらの全ての与件に著しい影響を与える政治的意思に関しても、ここ10年の政治的不安定がもたらした短期政権のせいで、大きな浮き沈みがあった。時の政権に左右される政治的意思形成は、政府外要因が入り込むことで更に複雑化する。物理力が異なる方向性に分散させられると、その客体は動くことができないか、不安定に揺れ動くしかないように、90年代のトルコの対外政策も秩序や調和からはほど遠い外見を呈していた。対外政策の優先順位における突然の変化は、戦略的連続性を著しく弱めてしまう。90年代のトルコの対外政策の連続性を示す唯一のものは外務大臣の度重なるすげ替えだけであった。それは他の要素としての戦略立案にも深甚な影響を与える。有効な戦略計画によって対外政策が大きく左右されると、内的整合性を毀損し、ひいては対外イメージをも損ねることになる。
 パワーの構成要素について今日なされている議論における最も重大な誤りは、パワーの定項のダイナミックな解釈が活発でなく、遅れていることである。イデオロギーの優先順位が、歴史と文化のパラメーターと照らして、冷戦期においては正しかった諸前提が、地理のパラメーターに照らして、静的な枠組で分析されているのである。対外政策における重大な逸脱に道を開いた静的な解釈と遅れも、元来は(パワーの)定項と潜在力を調和的に長期的な戦略的の一体性の一環として扱われなかったことの結果である。これも我々に戦略計画と政治的意思の欠如の問題に直面している。
 90年代に入って我々が採用したと称される対外政策の言説が、90年代の終わりにかけて謎のイメージの悪化を被った原因もこの戦略的一貫性の欠如である。逆に二千年代に似たようなイメージの悪化がなかったのは対外政策の主な要素に関して共通の戦略理論の基礎を形成できたからである。

2017年10月5日木曜日

エデン発表要旨「中東溶解‐呪われたクルド民族主義 ― カイロ大学の“先輩”小池百合子を語る」2017/10/3  

「中東溶解‐呪われたクルド民族主義 ― カイロ大学の“先輩”小池百合子を語る」

2017/10/3 イベントバー・エデン        同志社大学客員教授 中田考

発表要旨・資料

*中東人の発言は全て(一つの例外もなく)ポジショントーク、小池はそれを日本に。

*中東人類学者アーネスト・ゲルナー(Ernest Gellner, d.1995)のナショナリズムの定義
「ナショナリズムとは、第一義的には、政治的な単位と民族的な単位とが一致しなければならないと主張する一つの政治的原理である」

*アラブの二つの定義:①アラブ人を父とする者 ②アラビア語を話す者(ムスタウラブ)
①カフターン族(南アラブ) ヤアラブ・ブン・カフターンを名祖
②アドナーン族(北アラブ) マアド・ブン・アドナーンを名祖(アブラハムの子イシュマエル[イスマーイル]を太祖) 
つまり、小池百合子はアラブ人(ムスタウラブ)

*「民族(部族、人種、語族)」概念は古来より存在。しかし現代の「nation」とは別。
古代アラブにも疑似ナショナリズム的イデオロギー存在:アサビーヤ、ジャーヒリーヤ
「世情の堕落の多くは、財貨や名声などを取って、ハッド刑を免除することから生じるのである。それはアラブやトルコやクルドの遊牧民、村落民、都市民、農民、カイスやヤマンの諸党派、定着民の指導者や名士や貧者たち、将軍や将校や兵士たちなどの堕落の最大の原因なのである。」
「血縁、郷土、人種、法学派、神秘主義教団など、イスラームとクルアーンの呼び掛けからそらすものはすべて、ジャーヒリーヤ時代の挽歌なのである。」イブン・タイミーヤ(1328年没)

*ナショナリズム:第一次世界大戦、第二次世界大戦の原因、史上最悪のイデオロギー
 イスラームはジャーヒリーヤと戦うためにもたらされた。「現代のジャーヒリーヤ」ナショナリズムこそイスラームが戦うべき対象。

*ダウトオウル『戦略的縦深』
「国際関係の中でのある国家の固有の存在感とパワー(G)に関し、こうした関心に対応する可変的な定義を発展させることができる。定数(SV)、歴史(T)、地理(C)、人口(N)、文化(K)として、変数(PV)は、経済力(Ek)、技術力(Tk)、軍事力(Ak)として定義され、一国の力をこのような形で示すことができる。
G=(SV+PV)×(SZ×SP×SI)
この定式で、SZは戦略思考、SPは戦略的計画、SIは政治的意思を意味する。
SV=T+C+N+K & PV=Ek+Tk+Ak となるので、この式を展開すると
G={(T+C+N+K)+Ek+Tk+Ak)}×(SZ×SP×SI)となる。」
国際情勢分析の3レベル:①地政学(長期)②(中期)③国際関係(短期)

*中東溶解:①シリア、②イラク、③イエメン、④湾岸諸国 (遠因:カリフ制の崩壊)
①シリア:25万人以上が死亡、総人口の約半数1千万人近くが難民化
(イラン・イラク戦争でイラン支援)
*直接の原因:1.アラブの春 2.1982年ムスリム同胞団殲滅(ハマー事件)
←1965年サイイド・クトゥブ処刑、1949年バンナー暗殺(エジプト)
(ムスリム同胞団vsアラブ社会主義 ←→ アラブ王政諸国vsアラブ社会主義諸国)
 *トルコ国境の町コバネの対IS戦いで国際テロ組織PKK(クルド労働党)の分派のクルド勢力[クルド民主統一党(PYD)人民防衛隊(YPG)]支援 ペシュメルガ協力

 ②イラク:破綻国家 内戦、難民、国家分裂(2014年イスラーム国、クルド独立)
 *直接の原因:1.湾岸戦争(1990-1年)シーア派、クルド人蜂起弾圧(米見捨てる)
  2.アメリカのイラク侵攻、サダム政権崩壊(2003年)、イラク分裂
  (2001年「9・11」→ アメリカ軍アフガニスタン侵攻タリバン政権崩壊
           → アフガニスタン破綻国家化)
  3.シーア派政権[特にマーリキー政権在位(2006-2014年)]の悪政
         (シーア派各派、サダムの治世にイランが庇護)
  4.アラブの春
   A.スンナ派弾圧→ 2014年 スンナ派反シーア強硬派イスラーム国誕生
   B.クルド自治政府予算カット→ 2017年 クルド自治政府独立国民投票

 ③イエメン:最悪の人道危機 サウジ主導のアラブ連盟軍介入以来8千人以上が死亡
       コレラ感染の疑い37万人
 *直接の原因:1.イラン・イスラーム革命 1979年 シーア派革命輸出
2.アラブの春 2012年アリー・サーリフ政権崩壊  
        3.ハーディー政権崩壊 2015年 シーア派ザイド派首都サナア制圧
          サウジ主導のアラブ連合軍サナア空爆

④湾岸諸国:サウジアラビア(世界第4位の軍事大国)「宮廷クーデター」2017年
  M.B.N皇太子廃位し、国王の息子ムハンマド・ブン・サルマン(M.B.S)新皇太子
    M.B.S 2015年国防大臣としてイエメン内戦介入
  2017年6月 カタル断交(対イラン安全保障体制としてのGCC崩壊の危機)
      2017年9月 サルマン・アウダら社会派イスラーム学者ら逮捕
      サウジアラビア:シーア派、ムスリム同胞団、ワーッハーブの全てを敵に

*クルド人は存在するのか?
 クルド人は「3千万人の人口を有する国家を持たない最大の民族」なのか???
クルマンジー語(北部クルド語)とソラニー語(南部クルド語)は互いに通じない。
*クルディスタン独立
 1.1920年 セーブル条約でクルディスタン独立承認(1923年ローザンヌ条約で反故)
 2.1946年 クルディスタン人民共和国(ソ連によってイラン北部に建国)
 3.1990-1年 湾岸戦争:アメリカはサダムフセイン政権への反乱を煽り梯子を外す
   → クルド人自治地域(1970~ ハラブジャ事件1988年)に飛行禁止地帯
   2003年クルド地域(自治)政府(KRG)
   2014年 イスラーム国台頭によるイラク政府軍撤退、KRG事実上の独立
*クルディスタン民主党(KDP)、クルディスタン愛国同盟(PUK)の対立、政治的腐敗
*2003年サダムフセイン政権崩壊直後比較的治安定のクルディスタン復興バブル
*KRGの腐敗、マーリキーとバルザーニーの対立による中央政府からの配布金カット
*2014年以降、油田地帯のキリクークを支配下においたが経済回復せず
*2017年9月26日 クルディスタン独立投票  
イラクだけでなく隣国トルコ、イランも反対 ←→ 賛成派イスラエルだけ
イラクは空路閉鎖
 *クルド人は世俗国家に賛成か?
「失われたクルド人」東アラブの近代スーフィズム覚醒運動の担い手としてのクルド人
ハーリド・バグダーディー(1827年没)
トルコ共和国成立時のシャイフ・サイードの乱(1925年)
現在のトルコのマドラサ・ネットワーク
シリア前ムフティー・アフマド・クフタロー(2014年没)
アサドの御用学者ブーティー(2013年没)

 


2017年10月2日月曜日

ダウトオウル『戦略的縦深』第1部 1章 3節 2.トルコのパワーのパラメーターと防衛体制

2.トルコのパワーのパラメーターと防衛体制
我々が扱う時代のトルコの他の国々の相違として、上記の定式に照らしてその防衛体制を例として説明すべきである。この防衛体制における歴史の要因は、トルコをして、現行の国際法上の国境の暫定的な影響を超えた防衛戦略を取る必要性に直面させている。オスマン帝国の歴史的、地政学的領土に生まれてその遺産を引き継ぐトルコ共和国の防衛体制は、主権を有する国境内だけに限定されて構築されることはできない。
この歴史遺産は、トルコ共和国の国境を超えた介入を必要とする事実上の状況をいつでも生み出しうる。ボスニア、コソボ紛争は、その最も印象的な例であった。バルカン諸国政策を冷戦パラメーターがもたらした二極構造の周辺に位置したNATO(北米条約機構)の枠組に組み込まれたトルコは、国境を接する隣国であるブルガリアとの関係は、(資本主義・自由主義)ブロックの内部紛争、ギリシャとの関係はブロック内の脅威とみなし、その
考えに基づいて空軍力を整備する。したがってユーゴスラヴィアの解体によって、ドラヴァ-サバ島を地政学的枢軸とするボスニア紛争、モラヴァ-ヴァルダルを地政学的中枢とするコソボ-マケドニア紛争に介入する可能性に基づいて、防衛体制を構築したのである。そしてこの紛争が起きた時、トルコの航空機がボスニア上空で滞空時間がわずか数分しかなかったことが明らかになったため、空中での燃料補給が可能な航空機の購入につながった。その教訓を踏まえると、トルコの防衛戦略は、防衛産業が有する歴史的責任を視野に入れた上で立案しなければならないことがわかる。
トルコの地理は、その防衛産業の構造に直接的に影響を与える重要な様々な要素を含んでいる。半身を三方向で海に囲まれている一方で、陸に奥行きがあるトルコの地理は、多くの国々とは逆に、海と空の防衛戦略を統合的に組み立てることによって守られる。この地理が国防上の必要事項をもその交差する領域で規定する。1964年と1967年のキプロス紛争において、海軍が必要な水陸両用車を保有していなかったことが外交政策のオプションを狭めることが明らかになったことは、その好例である。この軍事的欠陥とジョンソン書簡が海軍の体制を立て直し、トルコは1974年の上陸(キプロス軍事介入)作戦を行うことにできるようになった。この地理的要因の影響の好例は、トルコのエーゲ海政策に見ることができる。エーゲ海の3000近くの大小さまざまな島々や小島より更に小さい岩礁を保有するトルコは、そのような地理が要請する海軍の建設を必要としている。
人口急増の時代が始まったため、20世紀初頭の1500万人から20世紀末には7000万人に達し、この30~40年で人口が二倍になると予想されるトルコのこの(人材という)重要な与件を正当に評価するためには、経済力と防衛の需要、体制、構造の間に持続的で首尾一貫した関係を築く必要がある。正しい価値観を有し健全な教育を受けた国家の機動力である人口という要素は、必要とされる用意周到に準備された状況においても不安定の原因ともなり得る。トルコのような強大な人的潜在力を有し世界の最も不安定な地域の地政学的交差点に位置する国々は場当たり的な政策によっては安定しえない。
トルコの勢力均衡におけるこれらの定項を実現させる大きな可能性は、防衛体制の観点からは同時に大きなリスクでもある。このリスクを最小に減らしながら、その可能性を実行に移すことは、歴史、地理、人口のような定項と、農業、産業構造、交通、天然資源のような経済的諸要因と技術的潜在力をマッチングする戦略を立案することによって初めて可能となる。
この点において、経済発展戦略と防衛戦略の間の関係は、安定した上位戦略によって規定されねばならない。トルコは現在までそれを行わなかったことの問題に直面している。80年代までは、輸入補助制度に頼る経済発展戦略を採用していたトルコは、この戦略に適合した防衛産業(育成)戦略を発展させた。トルコにそのような連携がなかったことで、1974年に平和運動の前にキプロス問題で難局に陥ったことは、受け身の場当たり的な戦略的体制の所産であった。また経済力、技術力と防衛体制の間の緊密な関係に気づけば、それが必然的であったと付言できる。
80年代の後の輸出志向経済発展戦略を採用した時代においても、防衛(産業)部門の輸出の潜在力は十分に評価されておらず、その部門での技術革新も望ましい規模で実現されていなかった。近年では、潜水艦のような一部の製品によって、極東市場に参入を試みたのも、この不足に遅ればせながら気づいたことを示している。F-16戦闘機のアセンブリー生産の部品の一部の生産を担うようになったことを重要な一歩として評価することができるなら、国産技術の発明を付け加えるレベルでの本物の持続的な成功を成し遂げることができよう。航空機の近代化にまだ外国からの支援が必要であることを痛感したトルコが、輸入によって入手された航空機部品の近代化においても、パワーの能力の定項と変項の視点からは、(トルコより)はるかに遅れた国々にも頼らざるをえないことに気づいたことは、問題の深刻さを示していた。
トルコはポスト冷戦期に関して、まだ自前の首尾一貫した戦略を持つに至っていない。防衛産業を含んだ形での新しい戦略を立案することなしには、次第に地域性、グローバル性を増しつつある危機に即応することはできない。今日では、パワーの諸要素と戦略の立案の調整においてなされた最も重大な間違いは、パワーの定項諸要素がダイナミックに活用せず取り残されたままにされていることである。外交における重大な失策に道を開いた静的な理解とその遅れも、元はと言えば、定項と変項の諸要素を調整し統合する長期的な戦略的一体性の不在の結果であったのである。このこともまた、戦略的計画と政治意志の欠如という問題に我々を向い合せる。共同体の政治的、経済的、精神的伝統を統合する新しい戦略の構築と防衛産業を、この枠組みにおいて、パワーの定項要素をダイナミックな解釈し、パワーの変項の潜在力を起動させる形で新しく考え直すことが、基本となる出発点でなくてはならないのである。